■唯物論的冠婚葬祭研究会

メールで反応をどうぞ。伝言板に反応をどうぞ。

火葬場でのランク

 公営の火葬場には等級がありませんが,民営の火葬場には炉によって等級があります。東京のある火葬場では「中等」(8400円),「最上等」(4,2000円),「特別賓館」(15,2000円)の三等級に分かれています。これら等級による火葬の違いなんでしょうか。

予想

 ア 火葬にかける時間の違い
 イ 火葬の際の燃料の違い
 ウ 炉の設備の違い
 エ そのほか






















 等級によって値段が20倍近く違いますから,値段が高いのは燃料に備長炭を使うなど特別な焼き方でもしているのかと思いましたら,実は中等と最上等では,「炉の位置が端(中等)かそうでないか」という違いだけだそうです。また特別賓館では,「炉の前を広く取ってついたてで仕切ってある」というところがほかの等級との違いだそうです。つまり焼き方には何の違いもないのです。

 それでは一番多く利用されるのはどの等級でしょうか。

予想

 ア 中等 8400円
 イ 最上等 (中等の約5倍=4,2000円)
 ウ 特別賓館 (中等の約20倍=最上等の約4倍=15,2000円)

















 焼き方に差がないのであれば,中等が一番安くて良いと思われますが,実際には中等を利用する人はほとんどいないそうです。これは高いお金を出して院号などの戒名(法名)をつける心理と同じかも知れません。

 「特集ニッポンの風景 お葬式」『ノーサイド』93.10月号 文芸春秋社 より

(2000.9.15)







◎「Civil Wedding」が流行?!

北海道新聞2000.6.4のコラムより

 欧米で人気が高まっている「シビルウェディング」と呼ばれる新方式の結婚式が三日,道内で初めて函館市芸術ホールの野外ステージで行われた。
 法手続を重視し,婚姻届の受理証明書を披露するのが特徴。(中略)約三百人が見守る中で証明書を読み上げ,婚姻成立を宣言した。
 同席した全日本ブライダル協会長の桂由美さんは,二人を祝福しながら「シビルウエディングをどんどん広めていきたい」と話していた。

 うーんこんな形式の結婚式が流行っていたとはしりませんでした。まあ人前結婚式のひとつの形式です。なんとなく「法によって認められた」ということを重視するようで,ボクはあまり乗り気ではありませんが,多くの神様のかわりに法というのはひとつの発明かも知れません。(2000.6.6)

・日本でのcivil wedding

 なぜcivil weddingが日本語に翻訳されないのかが不思議です。京王プラザホテルのホームページには,「シビルウエディング」のページがあります。ここでは「人前式=シビルウエディング」です。(2000.6.7)

“人前式”は宗教にとらわれず、結婚式に参加した人々を証人として、結婚を誓い合う人前式の挙式です。欧米ではよく行われている結婚式で、イタリアでは市役所で官吏立会いのもと、正装をした花婿とウエディングドレスに身を包んだ花嫁二人が署名して届け出を行い式を挙げるのが特に都市部において一般的となっています。
 京王プラザホテルでは、宗教にとらわれず自分たちらしい結婚式を挙げたいと願うカップルのために、1993年よりいち早くこの人前式を神前式、教会式に続く挙式スタイルとして取り入れています。
個性を重視する本物志向のカップルに人気をよんでいます。

 人前式 挙式料 10万円(別会場)・3万5千円(披露宴会場内)
●別会場での式はもちろん、披露宴会場での挙式も可能です。
●音楽・衣装その他の演出はお二人のご希望にあわせてできます。http://www.keioplaza.co.jp/wedding/the/civil.htm

・イタリアでの結婚式

 「イタリアでの結婚式は,はっきりとふたつの形式,つまりcivilと宗教的な儀式に分かれています。」という記述が「イタリアへの観光」を扱う米国のサイト(http://goeurope.about.com/travel/goeurope/library/venice/aa981031.htm)にありました。どうも米国では「ベニスでの挙式」というのが人気のようです。(2000.6.8))」



・「civil marriage」

civil weddingという言葉は「リーダーズ英和辞典」には載っていませんがcivil marriageというのがありました。

CIVIL MARRIAGE #n. 民事的婚姻, 民事婚 《(1) 宗教儀式によらず公吏が取り行なう制度 (2) それに基づく結婚式 (civil ceremony) (3) それによる結婚生活》.

[リーダーズ英和辞典]

 しかし欧米のホームページでは「CIVIL WEDDING」という言葉が普通に使われています。アメリカのウイスコンシン州デーン郡のホームページには次のようにあります。

 ウイスコンシン州では,どの最高裁判所や巡回裁判所,またはどの地方判事や裁判長もcivil weddingの儀式を執り行います。ご希望の方は,下記の判事や裁判官に直接電話してください。

(中略)

 結婚許可証を申請する前に,判事や裁判官と儀式の場所と時間について打ち合わせてください。私どもは,お二人の結婚許可証を結婚式の主催者宛にお届けします。
http://www.co.dane.wi.us/coclerk/civilcer.htmより翻訳

 

 思えばこういった結婚式はアメリカのドラマなどで見たことがあります。でもキリスト教の影響が大きいと思っていた米国で,このような無宗教式の結婚式が多くあるとは驚きです。キリスト教では結婚式は大切な行事ではないのでしょうか。それにしても電話一本で結婚式ができてしまうのですから(場所は自宅でも良い),個人主義の国なんだなあと再確認させられます。(2000.6.7)


・英国でのcivil weddingの招待状

 「civil weddingの招待状の書き方(例)」が載っている英国のホームページがありましたので翻訳してみます。英語と日本語では語順が違うのですが,原文の雰囲気を出すようにしてみました。もともとの文はhttp://ads.hitched.co.uk/banner.aspにあります。(2000.6.7)

ジェイソン・フォスター夫妻は

娘の

ヘレン

フランシス・ベーカー氏

との

結婚式に

ご臨席を賜りますようにお願い申し上げます。


とき

1998年8月11日 土曜日 午後3時

ところ

マンチェスター・ユナイテッド サッカークラブ

マンチェスター市オールド・トラフォード町



六曜と結婚式(2000.4.27)


『結婚式・葬式はここまで節約できる』より

 『サンデー毎日』臨時増刊2000.3.25号 毎日新聞社

 この雑誌はタイトルと違って,唯物論的冠婚葬祭研究に大いに役立ちました。おもしろかったことをいくつか書いておきます。


・「仏滅追放の結婚式」1970.10撮影

 「仏滅追放」というプラカードを掲げて行進する三組のカップルの写真です。プラカードやたすきに「東天紅」という文字が見えますが,これは結婚式場の名前でしょうか。北海道には東天紅という名前の高級中華レストランがありますが,それと関係あるのかなぁ。それにしてもこんなキャンペーンがあったということが驚きでした。

 さらに「挙式実施日の暦」というグラフ(リクルートの結婚情報誌『ゼクシィ』調査)があって,これがおもしろいのでちょっと問題にしてみます。下記のファイル名をクリックするとダウンロードします。このファイルはPDF形式です。


  〈六曜と結婚式〉 Rokuyou.PDF 5KB 

PDF形式のファイルについて

 PDF形式のファイルは,機種に関係なくファイルを印刷されたイメージで見ることができます。そのファイルを編集したり印刷することも可能です。ただ文字のフォントだけは,違ってしまうことがあります。 

 PDF形式のファイルを見たり印刷したりするためには,Acrobat Readerという無料で配布されているソフトが必要です。Acrobat Reader4.0 以上を使ってください。3.0では不具合が出るかも知れません。 Acrobat Readerは,パソコン雑誌の付録などで入手できるほか,下記のホームページから無料でダウンロード可能(5MB)です。

http://www.adobe.co.jp/products/acrobat/readstep.html



◎寺請制度と魔女狩り

 圭室文雄 『葬式と檀家』歴史文化ライブラリー70 吉川弘文館 99.7 1700円

は,なかなかおもしろかったです。ちょっと資料の調べ方が原子論的ではなく,一つか二つの資料から結論を断定してしまうようなところがあり信頼性に欠ける部分がありますが,内容はとてもおもしろかったです。
 江戸時代の寺請制度はキリシタン対策として始まりましたが,それが「寺による檀家支配につながった」とは思っていませんでした。ボクは「葬式仏教としての坊主丸儲け」というのは最近のことだとぼんやりと思っていたのですが,まるで違っていたわけです。なにせ寺請制度により絶対的権力(キリシタンでないことを証明する唯一の方法は檀家であること)を持った寺は,当時より檀家を布施の金額などにより差別して,戒名の金額による差別もその頃から始まっていたのです。さらに幕府のキリシタン差別政策により,「切支丹類族」として差別戸籍に一度載せられたら,本人以降五世代にわたって差別を受けていたのです。さらにこの差別は武士においても例外ではなく,寺を監督する役人の武士までもが,その寺に破檀されて処分を受けるというのですから,寺の権力が強かったことが想像できます。また切支丹の取り締まりは,密告によるものがほとんどで,一度「切支丹である」と密告されたら最後,無罪を勝ち取る方法がないものだったようで,このあたりは中世の魔女狩りとそっくりです。
 明治の廃仏毀釈も江戸時代のこういった状態を分かっていると,その意義が見えてくるようにも思えます。また信仰の自由を得た民衆が,寺から離れていき,ついには葬式仏教となったのも必然に思えます。著者は「将来はさらに寺離れが進み,葬式仏教の地位も危ない」と予想しますが,ボクも同感です。坊さんが威張っているわけがよく分かりました。本当に権力を持っていたのですから。
 関連して調べてみたいことがたくさん出てくる本でした。(99.7.11)




◎おすすめの本

 『都道府県別冠婚葬祭大事典』主婦と生活社 92.3 3900円

 類書は多々あれど,これがベターです。オールカラーで読みやすいですし,歴史的背景まで説明されています。冠婚葬祭研究の必携書です。



◎葬式研究会のお知らせ

 亡くなった加川さんの遺骨は科学の碑に入ることになります。これは仮説実験授業研究会会員の遺骨としては初めてのことなので,きっとその儀式や哲学についての研究会が開かれるに違いないと思っていましたら,それが実現されるようです。研究会の案内パンフレットより転載します。


科学の碑・設立10年目を記念して
葬式研究会

 さる1月3日,北海道小樽市の加川勝人さんがお亡くなりになりました。そのご遺骨は,2月にご遺族の手によって東養寺に預けられていますが,雪解けを待って納骨を行うそうです。
 ところで,すでに科学の碑の共同墓地には数人のお骨が納められています。しかし,仮説実験授業研究会会員で,科学の碑設立者の方がお亡くなりになったのは初めてで,東養寺での仮納骨式に立ち会った板倉・竹内らから「そろそろ〈行事としての葬式〉について考える機会を作ろう」という話が出ていました。そこで,科学の碑設立10年目にあたる今年5月に,当地で葬式の研究会を開催することにしました。ご参加ください。
 主催:科学の碑運営委員会
日時 5/29〜30
場所 科学の碑記念会館ほか 詳細は略 
 詳細や参加についてのお問い合わせは,平野孝典さんまでどうぞ。ボクも行きたいけど,日程的にちょっと無理かなぁ。(6月上旬に子どもが生まれる予定なので。)



「喪服は黒?!」 池田毅司さんのホームページ「社会の発明発見研究所」内のページです。

 冠婚葬祭研究関連ですので,ここから訪問できるようにしておきました。タイトルをクリックしてください。


◎無神論者の葬式 故・加川勝人さん

 葬式研究会のため偲ぶ会についてのレポートを作成しました。WORD形式です。お読みになりたい方は,ご請求ください。

 仮説をこよなく愛した
加川勝人儀 一月四日午前零時,七十四歳をもって死去いたしました。

ここに生前のご厚情を感謝して謹んでお知らせ申し上げます。
 つきましてはお別れの会を左記の通り執り行います。
 一,偲ぶ会 一月六日(水) 午後一時
 一,会 場 豊楽荘〈住所と電話〉

尚故人の意志によりご供花ご供物の儀は固く拝辞申しあげます。
  平成十一年一月五日 〈住所〉
           喪   主 〈名前〉
           友人代表 〈名前〉
           友人代表 〈名前〉
           偲ぶ会代表 〈名前〉

 これは新聞に載った加川さんの死亡広告です。一部省略してあります。〈〉の中は省略した内容です。原文は縦書きです。

 ボクは「偲ぶ会」という形式の葬式に参加するのは初めてでしたので,とても興味がありました。偲ぶ会の当日,家を出るときになって,女房がこの広告を見つけて教えてくれたのです。広告の「供花・供物お断り」というところを女房が勘違いしてボクに「〈お花代〉は故人の意志によりお断り」というので「加川さんらしいな」といわゆる「香典」をボクは用意しませんでした。無宗教式の葬儀の場合,「御花料」とは「香典」のことだからです。それて゜一緒に偲ぶ会に向かう仲間が香典袋を用意しているのを見て,「〈香典お断り〉という故人の意志を尊重しないといけないぞ。それに蓮の花の絵がついた袋は仏教式の葬儀にしか使えないのだぞ。」などと威張っていたのでありました。ああ恥ずかしい。

 会場に着くとまず玄関に「香典の領収証が必要な方はお申し出ください。」と張り紙がしてあって驚きました。そして受付には「香典返し」(北海道での香典返しはハンカチとか海苔とか非常に簡単なものです。それにお礼の挨拶状も添えられています。また記帳もありません。)が積まれているではありませんか。「御名刺受け」の盆もありました。

 家に帰ってから広告をよく見ると「ご供花ご供物は辞退」でした。冠婚葬祭についての本を読んでみると,「ご供花ご供物は辞退」では「香典はもっていってもよい」という意味になり,「ご厚志お断り」なら「香典もお断り」という意味になるそうです。

 会場は立食パーティ形式で,実際に加川さんは生前に「パーティ形式でやれ」と言い残していたそうです。「偲ぶ会にはどんな服装で参加するのか」というのもボクは迷いました。結局黒っぽい背広で出席したのですが,出席者のほとんどは礼服でした。会場には道内各地から仮説実験授業研究会会員が集まっていました。また細井心円さんも出席されていました。

 会場にはステージに加川さんの写真と遺骨が菊の花に囲まれて安置されていました。加川さんが亡くなられた後,「通夜・告別式」は親族のみで行い(密葬),さらに昨夜には「偲ぶ会の夕べ」というのも行われたようです。また供花がとても少ないことに気がつきました。同窓会,仮説社社長,仮説実験授業研究会,小樽たのしい授業サークルからの4つだけです。しかし「〈供花は固辞〉とあったのになぁ」と思わないこともありませんでした。供物は見事に何もありませんでした。

 偲ぶ会は黙祷から始まりました。その後友人代表がふたり,加川さんの遺骨に向かって加川さんの思い出などを話していました。そして小樽たのしい授業サークルの小浜さんの番となりました。ボクは,それまでの人が参加者に背を向けて,ステージに向かって話をしているのに違和感がありましたので,「小浜さんはどうするのかな」と興味を持って見ていました。小浜さんは,うれしいことに参加者に向かって話を始めたのです。「どうぞ壁際においてあるイスにお座りください」小浜さんは何度もそういいました。結構な数の参加者(ほとんど高齢者)がそれに従ってイスに腰掛けました。小浜さんは「仮説実験授業とはどういうものか」という説明に,「イオンテスター」を持ち出して,「ここに一円玉をつけたら,電球は光るでしょうか。光ると思う人は手を挙げてください。」と始めたのです。小浜さんの「問題」に対して参加者のほとんどが「予想」に手を挙げていたのには,ちょっと驚きました。そして「実験」のときなどは,ここが葬式の会場であるかを忘れたかのように会場はたのしい雰囲気に包まれていました。

 小浜さんの後,教え子代表がまた遺骨に向かってしんみりとした話をして,会場はすぐさま厳粛な葬儀の雰囲気に戻りました。

 そのあと親族に続いて参加者が献花(会場入り口で菊の花を一輪渡された)をしました。献花では花を参加者に向かって置くので,置くときは変な感じ(遺影に向かっては置かないので)がしましたが,献花を終えてからステージを見ると,花がこちら向きになっているので,とてもきれいに見えました。(この献花というのはキリスト教式の葬儀でのルールを模倣したもののようです。)献花のときには,音楽が流れ,「これは故人が好きだった曲です」との説明がありました。献花の後は,親族代表の謝辞で偲ぶ会を終えました。

 偲ぶ会の後は「会食」ということで,「故人は〈振る舞うときは盛大に振る舞え〉といつもいっていました」というアナウンスが流れ,各テーブルにビールや食事などがたくさん配られました。料理は葬式用の料理ではなくて,結婚式披露宴などのものと同じ豪華なものばかりでした。こうなると,みなさんこれが葬式であるのを忘れてしまい大騒ぎをしていました。会場のスクリーンには,加川さんの授業の様子のビデオが映し出されていました。また弔電の披露もありました。「この会場は2時45分までとなっておりますので,それまでおたのしみください。」とアナウンスが流れたのもおかしかったです。

 ふつうの葬式と比較して,坊さんの訳が分からないお経を長時間聞かなくて済んだことが何よりもうれしく感じました。唯物論的葬式について林秀明さんと話しをしていて,「ふつうの葬儀では忙しすぎて親族は悲しむ暇もない」ということをお聞きして,あるアイディアが浮かびました。それは今回のように,「身内的なものと社会的なものを分離してはどうか」ということです。つまり葬儀は親族のみで執り行い,偲ぶ会をひと月程度後に,案内状を出して開催してはどうかということです。それも会費制で。


 ボクが初めて仮説実験授業関係の講座に出たとき,その主催者が加川さんでした。加川さんは受付にいらっしゃって,「ああ,初めて来てくれた丸山さんね。最初からナイターを主催するつもりで参加してみてよ。」と優しく声をかけてくださったことを覚えています。そのときは「ナイター」の意味がボクにはわかりませんでしたが。
 加川先生は,ボクが結婚するときに「唯物論的冠婚葬祭研究のひとつとして,たのしい婚礼の研究を始めます」といったときに,「たのそう(たのしい葬式)の研究も関心がある」とおっしゃっていました。その言葉,ボクは実行いたします。先生の思いは,確実にみんなの心に残っていますから。(99.1.7)

 そういえば会食のときに,カメラマンがテーブル毎に参加者の写真を撮っていました。ふつうの葬儀では写真を撮りません。さらに遺族の方がテーブルを回ってお礼を言っていました。これもまるで結婚式披露宴のようでした。
(1/8)



◎小浜さんのスピーチ

 小浜さんよりスピーチ原稿をいただきましたので,了解を得て掲載いたします。

加川さんを偲んで

99.1/6 加川さんを偲ぶ会にて
小浜真司


 こんにちは。小樽高島小の小浜真司といいます。
 あんなに元気だった加川さんがなくなったことは,今だに信じられませんが,今日焼き場に言って,原子となっていくのを見届けてきました。
 今回,加川さんも参加し続けてくれていた「小樽たのしい授業サークル」の代表ということで,たったε年間のおつきあいでしたが,おもに加川さんと仮説実験授業についてお話をさせてください。ちょっと長くなるかもしれませんので,疲れた方は,どうぞ椅子の方におかけください。

 仮説実験授業は,もしかしたらこちらに「科学の授業」とか「ファイル,プリントの授業」と呼んで加川さんの授業を受けられた方もいらっしゃるかもしれませんし,古くからの小樽の教員の方は,ご存じかもしれませんが,1963年(昭和38年)に当時国立教育研究所の板倉聖宣さん,本人はいたずら博士と呼んでいますが,によって提唱された授業理論で,授業書というプリントにそって,授業をすすめていきます。
 この短い時間で仮説実験授業を正確に伝えることはちょっとぼくには難しいのですが,簡単な実験をこれからやってみますので,もしよかったらおつきあいください。

[問題1]
 ここにこんな装置があります。
 この2本の先を銅線にくっつけるとこの電球が光ります。
 では,1円玉をくっつけるとどうなるでしょうか?
 ここで,予想をおうかがいします。
  ア,電球はつく
  イ,電球はつかない

 なかなかこう聞かれると,「あれ?」と思います。さあどうでしょう。まあ自分の子どもだったらとか,考えて気楽に手をあげてください。では,やってみます。

[問題2]
 この2本の電気の刃を水道水につけるとどうなると思いますか?では,また予想をお願いします。
  ア,電球はつく
  イ,電球はつかない
 今度はどうでしょう?

 では,次の問題です。
これは,仮説実験授業の授業書からはちょっと脱線しますが,加川さんの大好きだったお酒はどうでしょうか?
  ア,電球はつく
  イ,電球はつかない
 昨日,しのぶ会の夕べで,サークルの人たちとわいわい予想をたてました。

 というように,やっていくと,「ビールはどうなるんだろう」「ジュースは」「塩水は」などいろいろこれで実験したくなります。こんなふうに「これは?」「じゃあ,これは?」というようにうまいぐあいに問題が配列してあって,時間をかけて,わいわいああでもない,こうでもないと予想して,科学の最も基本的なきまりや,原理・原則を学んでいくという授業です。
  
 ぼくは,加川さんと,この仮説実験授業を通じて知り合いました。
 加川さんは,1967,8年(昭和40年代)ころからずっと仮説実験授業に関わっていた方で,もう30年ほどになります。加川さんが40歳代前半のときです。理科好きだった加川さんは,その当時,市教研の研究部長などをやっていて,理科にかなり自信をもっていたようですが,板倉聖宣さん自身がやった仮説実験授業をみて,まず自分がその問題をまちがえてしまったショックがあった。そして,自分で授業をやってみて,子どもたちが,すごくこの授業を歓迎するということで,どんどん好きになって,全国で行われる大会に参加したり,仮説実験授業に関係する全国的な研究会を2度も主催したり,北海道全体で会をやったり,小樽でサークルを作ったりと,北海道では本当に古くから仮説実験授業に関わっている中心的な存在で,1984年に退職されてからもいろんな形で仮説実験授業と関わりを持っていた人でした。
 このへんのことは,そちらに加川さんの文献がありますので,もしよかったら読んでみて下さるとうれしいですし,1年ほど前に加川さんと1冊本を作ったのですが,あと2冊ほど加川さんと本を作ることを約束していて,その矢先だったので,これから,なにかの形でまとめたい,と思っています。

 加川さんとはじめて出会ったのは,ぼくが教師になった1991年(平成3年)の仮説実験授業の全国大会が北海道の定山渓であったときです。
 そのときは,これですね,加川式付磁装置を宣伝していて,その大会で販売していました。こんな感じだったかなと思います。(と付磁装置を紹介する)

 ぼくは,加川さんをまったく知らなかったし,もともと技術家庭の教師だったし,仮説実験授業にあまり興味はなかったので,「こんなの簡単につくれるよ」「どうしてそれを熱心に販売するのかよくわからないな」と思っていました。
 そうしているうちに,ぼくも仮説実験授業の魅力を感じ始めて,その後2年くらいたってから何回かお話するようになったんですが,最初あったときは,「なんだかコワイおじさん」という感じで,なかなか近寄りがたくていました。ちょっとまちがうとしかられるんじゃないかなと思っていたりもしました。だからそのあと1年くらいずっと連絡をとらずにいたりしていました。今思えばもったいない出会いです。
 でも,「たのしい授業を若い人に,ぜひ学校でやってもらえればいいな」という強い思いがあって,授業で使う材料をせっせと集めていて,教室の子どもたちの人数分,分けてくれたり,紹介してくれたりと,とっても気前のいいおじさんでした。

 それから数年して,ぼくが96年の3月に,加川さんたちから仮説実験授業に関するたくさんのことを学びたくて,小樽たのしい授業サークルを始めることを伝えたら,「小樽はなかなか続かないんだよ」と言って,しばらくはアヤシク思っていたようです。けれど,半年もすると,興味のある人がだんだん参加してくれるようになって,それをすごく喜んでくれました。加川さんがサークルをやっていたときは,仮説実験授業がなかなかやりずらい状況があって,加川さん自身もたいへんで,途中で解散してしまったりと長く続かなくて,「小樽ではもうサークルはできない」と思っていたらしいのです。
 でも,ふたたび仮説実験授業が好きな若い人たちが小樽に出てきて,サークルで出会うことができて,それ以来とっても仲良くしてもらいました。一月に一回お会いするサークルでしたけど,加川さんのコメントが楽しみだったりして,ほんとにたくさんのことを,学びました。

 あるとき,「加川式付磁装置を作ってみたい」とぼくが言って,いっしょに1日がかりで作ったことがあるのですが,ぜんぜんぼくの作業が話にならないのです。正直言って若くて技術にはちょっと自信のあったぼくは,年よりの加川さんの倍くらい作れるとたかをくくっていたんですけど,ぼくの2倍のスピードでしあげてしまう。そしてその仕上がりもぼくのよりだんぜんいいということにまずは,すっかり参ってしまいました。でもそのあと,折り紙が苦手というのを知って,加川さんらしいなあとすごく安心しました。

 サークルに新しい人がはじめて来ると,いつも自己紹介で「さてボクは何歳でしょう?」なんていう具合に聞いて,「今流行のフリーターをやっている70歳の加川です」なんていう感じで,だれも70歳代とはわからないぐらいに,いつも若々しい加川さんでした。今回入院されるまでずっと元気にサークルに顔を出してくれていました。
 コメントも,「う〜んそうね〜!」なんていう感じで,独特の間をおいて賛成したり,「そうかなあ〜」なんて反対したりする加川さんでしたし,若い人たちが「この授業を子どもたちが歓迎しました」ということを発表すると,「ぼくにも教えて」とか「今度やってみようかな?」なんていう加川さんでした。

 ふつう退職して,数10年もたっている元センセイと現職のボクたちが仲良くしていたというのは,みなさんからみてとっても不思議なのではないかと思います。「年寄りにはやさしくしなくっちゃ」なんていう精神も大事だと思うけど,それだけでは一時的には仲良くなれるのかもしれないけれど,ずっとこんな関係でいられなかったと思うのです。むしろあまり大事にせず,「なにかあっても,まあ加川さんがいるから大丈夫だろう」なんてあてにしっぱなしだったな,とも思っています。
 仮説実験授業の考え方の中に有料主義というのがあるのですが,加川さんは,「なるべく親分子分の関係にならないように」ということを気にしてくれて,加川さんの自宅を使わせてもらった会では,夕食に300円のカレーライスつきとか,そういうところで,こっちがへんに気を使わないように気を使ってくれました。
 なんだか師弟関係のように見えるかもしれませんが,仮説実験授業をいっしょに学んでいくというぼくたちの関係は,ぼくも加川さんから学ぶ場を用意できたことで,役に立ててうれしいし,加川さんもきっと退職して十何年もたつ自分が若い人の役に立つ,というのがうれしかったと思って,そのうれしさではお互い対等だったというか,プラスだった,関わることができてよかった,たのしかったと思っていますし,きっと加川さんもぼくたちに同じ思いを抱いているにちがいありません。
 だから,歳からいうと,もしかしたら孫くらいに離れているのですが,気楽におしゃべりでき,なんでも相談できるようになりました。また,なにか年が離れていても,うまが合うというか,愛敬があるというか,自分の失敗談を気楽に話してくれて,ワッハッハッハッハって笑いとばす,加川さんをだんだんと,とっても好きになりました。
 そして,加川さんの年のとり方がすごく素敵で,退職してからも,自宅にある作業部屋で,付磁装置を作ったり,最近では太陽電池の研究をしたりと,「加川さん,ヒマだったらなにか手伝ってもらおうかな」なんていうボクのもくろみは,見事にはずれ,充実した忙しい毎日を入院するまでは送っていたように思います。科学を楽しく学び続けて,人生を楽しくすごしていることに,「ああ,ぼくも年をとったらこんなふうになれるかもなあ」なんて,あこがれていました。


 このあとビデオで放映されますが,老人クラブで仮説実験授業をして,おとしよりにすごく喜ばれたり,科学教室を開いて授業をしたりと,学校を離れたいろいろなところでたのしい授業をやり続けられ,それが,子どもたちだけではなくて,大人にもみんなに喜ばれる,ということを加川さんから教えてもらったなあ,と思います。
 加川さんは,ここ最近「自分が死んだら」なんて話をお酒を飲むとよくしていて,ぼくはそれがすごくイヤでした。老後の楽しい人生を送って,素敵なおじさんでいつづけてほしいという思いがあったし,サークルでもいろんな年代の人がいて,それがまたよくって,しばらくはそのまま続いてほしいというのがあったので,「そんな,加川さん,冗談じゃないですよ」と言っていたのが,今回早々と現実になってしまって,とてもさびしいですが,仕方がありません。体は,原子となってまた空気中にただよいますが,これからぼくの心の中に,あるいはみなさんの心の中にはずっと生き続けると思います。「オレが死んだらしんみりした会はイヤだ,生きている人でワイワイやってほしい」と言っていた加川さんの意思をついでこのようなあいさつになりました。ありがとうございました。
 

◎スピーチについて  小浜慎司

 スピーチのいきさつなどについて小浜さんが書いてくださいました。編集(事実確認)のため公開まで時間がかかりましたが掲載します。(99/1/22)

 去年(1998)の10月の小樽での竹内三郎さん(仮説社・社長)の講演で,冠婚葬祭の話があり,「もしかしたら,竹内さんは,ぼくのためにこんな資料をもってきてくれたのかもしれない」と思いました。
 しかし,そのときの資料(「戦闘的原子論者と冠婚葬祭」)がどこかにいってしまい,内容で思い出せたのは,遠山啓さんの葬儀で板倉聖宣さんが大笑いしていたことと,祭壇にではなく参列していたみなさんにむかって話をしたという2つのことだけです。
 だから〈参加者に向かって話をする〉というのは,加川さんから言われていたわけではなく,板倉先生の話を覚えていたので,ぼくは,追悼のあいさつで,板倉さんのように,写真ではなく,生きている人にむかってお話しすることができました。
 また,心の準備もあったせいか,どっちかというと笑顔で,会を過ごすことできました。
 もし,このあいさつが「非常識だ」と言われても,ぼくは,セコイので,「加川さんがどうしてもこうやってやれと言ったから」と逃げ道もあったので,また,来てくれる人も加川さんのことをよく知っていると思ったので,思いきって,できました。

 加川さんは元気なころ「小浜さんが葬儀をしきれ」といっていたときもあったのですが,そこまでは,とうてい無理なことです。
 偲ぶ会の前々日に,友人代表の3人の中のひとりとして「追悼のことば」というものを引き受けることにしました。
 そのときまず,「みなさんの方をむいて話す」というのはすぐに頭の中にありました。それと,付磁装置の使い方もやりたいなと思っていました。何か少し長くなりそうだなと思っていました。
 スピーチの中で問題を出して実験することは「偲ぶ会のゆうべ」(仮通夜?)でサークルの人たちとワイワイやってから,「明日の偲ぶ会もこんなワイワイできそうかな?」と予想できたので,少しビールと日本酒をわけてもらって前の晩に家で予備実験もしました。
 会がはじまるまでは,こういうときに話をするのははじめてだったし,「予想に手をあげてくれなかったらどうしよう」と思ってかなりドキドキしていました。
 だから,けっこうたくさんの人が手を上げてくれたのがとてもうれしかったです。
 終わってからの感想はわかりませんが,仮説実験授業研究会の人以外では,加川さんの息子さんと娘さん,お孫さん,そして奥さんが「よかった」というようなことを言ってくれました。司会をしていた知り合いの葬儀屋さんは,「水はどうして(電球が)つかないの?」と聞いていました。偲ぶ会代表は,「小浜の(スピーチ)にはビックリした」と言っていました。あらかじめ内容について話していなかったのです。
 また,樽見さんに実験の助手や予想に手をあげてくれた人数を数える調べることを頼んだのは,ぼくには仮説実験授業研究会の全国大会で次期開催地を決めるため人数を数えるときのイメージがあって,その場で樽見さんにお願いして,こころよく引き受けてくれました。ちなみに,こうやって全国大会を決める方法は,加川さんがやった洞爺湖大会が決定するときからはじまったらしいです。
 なお,この偲ぶ会については,加川さんが生前にかなり細かく,具体的に偲ぶ会代表と打ち合わせしてあったようです。本人に相当強い意思とプランがないと,本人がいないわけだから,フツーの葬儀になってしまうと思いました。
 だから偲ぶ会の夕べも,「香典は?」とか「服装は?」とか参加者がいろいろ気にしていたので,丸山さんの「1ヵ月後くらいに偲ぶ会」という案はいいかなと思いました。
 では,原稿全文お送りしますので,もしよかったら掲載してください。 

◎.偲ぶ会の夕べについて  小浜慎司

 偲ぶ会に先立って行われた「偲ぶ会の夕べ」の内容を小浜さんが書いてくださいましたので掲載します。(99/1/22)

 

「偲ぶ会の夕べ」 1/4  午後5:00〜6:00
 場所 妙光寺(お寺の施設を借りた,本堂ではない)

 参列者はだいたいが礼服,息子さんは,普段着。奥さんは黒っぽい服でした。偲ぶ会代表は,普段着にちょっと黒っぽいベストです。
 祭壇?は,偲ぶ会とだいたい同じ感じかな。偲ぶ会にはあった仮説社などの4つの花輪?もありません。ただ,「それぞれ思い思いの形でお別れしてください」と,線香とローソクはあがっていました。それ以外は生花が自宅に4つほど届いていたので,それを前に飾るだけ。と,たいへんシンプルなものです。

 テーブルが対面式に用意されていて,その上には料理とお酒。いわゆるふつうの小さな宴会のオードブルやのりまきなど。精進料理ではありません。

 会は,偲ぶ会代表があいさつして始まりました。その後,来た人たちが,ふるまわれた料理とお酒を飲んで,1時間くらいあとに息子さんのあいさつ。ごくごく身内の通夜のあとの,宴のような雰囲気でした。そのあとは,参列者
は,それぞれ線香を上げて,時間もめいめいで帰っていました。

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