テキサスの旗
■レポート
「テキサスの旗」
Rテキサス.PDF 726KB
「一つ星の旗」
R一つ星の旗.PDF 387KB
カリフォルニア共和国の旗が出てくるドラマを発見しました。
「レリック・ハンター」というTVシリーズで,その中の「Flag
Day(カリフォルニアの旗)」というのがあるのです。DVDでは「開拓者の旗」というタイトルになっています。
旗に対する米国人の思いがよくわかります。しかし見つけた200年以上も前の旗は,新品同様なのが笑えますが・・・。まるで「爆心地の旗」のようだ。「グラウンド・ゼロ」という言葉もたくさん出てきますから,米同時テロ事件に関連して作られた作品なのかも知れません。
レンタル店でどうぞ。
2003.7.24
・文献
冨所隆治『テキサス併合史』有斐閣 1984
井出義光監修『アメリカの歴史なんでも事典』集英社 1992
山岸義夫『アメリカ膨張主義の展開』 勁草書房 1995
アメリカ学会訳編 『原典アメリカ史』 全6巻 岩波書店 1955
FOTW
Devereaux D.Cannon,Jr. 『The Flags Of The CONFEDERACY』 St.Lukes Press1988 Pelican1994
■Bonnie Blue Flag
by Rick Wyatt(FOTW)
この旗は,南部連合=アメリカ連邦の非公式国旗で同名の歌は非公式国歌です。この旗は,1861.1.ミシシッピの合衆国離脱の際に首都ジャクソンに掲げられたものです。この式に感動して作られたのが同名の歌です。
この旗の最初の使用は1810です。当時ミシシッピ東岸のルイジアナの一部とミシシッピとアラバマの南部は西フロリダとしてスペイン領でした。この地域はかつてフランス領ルイジアナの一部でもありました。1763フレンチ・アンド・インディアン戦争のあと,フランスはニュー・オーリンズと西岸のルイジアナをスペインに割譲し,米大陸の全領土を失いました(パリ条約)。東岸のルイジアナは西フロリダとして英国に割譲され,西フロリダは独立戦争の間,米国独立に協力するスペインにより征服されました。あとでフランスがスペインからルイジアナを購入して再び獲得したときに,そこに西フロリダが含まれるかどうかが問題となりました。スペインはその地域の支配をやめることを拒否し,1803年に合衆国がフランスよりルイジアナを購入した際にその問題を引き継ぎました。
西フロリダの住民は大多数が英語を話す人たちで,スペインの独裁的な支配にはなじめませんでした。彼らは合衆国がその地域の併合に失敗したのに落胆し,1804年にKemper兄弟たちによって指導された不成功に終わった革命を起こしました。ケンパー革命に続き,西フロリダの英語住民は,スペイン政府の枠組みの中での伝統的な英国的自由を確保しようと努力しました。それは1800年の集会で最高潮に達し,憲法による保護を強く求めました。Lassus総督は表面的には同意を示しながらも,この動きを押さえるために,東フロリダの総督に軍隊の派遣を求めました。
総督の二枚舌に気がついた会議の支持者たちは,暴動を起こしました。1810.9.11土曜,アイザック・ジョンソン少佐指揮下の竜騎兵はBaton Rougeの議会へ向けて出発しました。隊列の先頭には,ひとつの白い五稜星が描かれた青旗が掲げられていました。この旗はその数日前に,ジョンソン夫人によって作られたものでした。トーマス大佐指揮下のほかの共和主義勢力と一緒に彼らは,一名も失うことなくBaton Rougeを占領し,総督を捕虜としました。そして23日には,Baton Rougeの砦にボニー・ブルー旗が掲げられました。三日後,西フロリダ会議のジョン・レア委員長は,独立宣言に署名,「一つ星の旗」は新しい共和国の象徴となりました。
西フロリダ共和国は短命でした。スペイン支配が米軍の出兵やそのリスクもなく取り除かれたとき,合衆国政府は西フロリダに対する要求を主張するのに興味を持ちました。1810.10.27マジソン大統領は「西フロリダをルイジアナ領土政府の管轄下におく」と宣言しました。12.10にはボニー・ブルー旗は星条旗に取って代わられ,西フロリダ共和国は歴史の中へと消えました。
西フロリダ運動の記憶は南部の伝統になりました。29年後,テキサス共和国は,白い星のかわりに黄色い星を使った同じような国旗を採用しました。さらに22年後の1861年の数週間,西フロリダの一つ星の旗がミシシッピ共和国の非公式国旗として再び掲げられ,「ボニー・ブルー・フラッグ」の歌が南部のロマンチックな伝承に拍車をかけました。この歌が初めてニューオリンズでテキサス人とルイジアナ人がまざっているところで披露されたとき,暴動のような喝采を浴びました。
旗の存在は大部分がその歌によります。その旗は「分離独立の旗」としてそんなに使われたわけではありませんでした。椰子の木の旗や青地に白以外の一つ星旗によって陰が薄められていました。ボニー・ブルー・フラッグは,南部連合政府によって認められたこともなければ,1861.1.26にミシシッピが正式に国旗を採用したときは,カントンにはいっているだけでした。しかしその歌の結果として,ボニー・ブルー・フラッグは,南部の国家と人々の心をとらえたのでした。
Devereaux D. Cannon, Jr.
:http://home.att.net/~dcannon.tenn/FOTCbbf.html
・西フロリダ共和国国旗 1810.9.16−12.10
・テキサス共和国国旗 1836.12.10−1839.1.25 金色星
・ミシシッピ共和国国旗 1861.1.6−1.26
麗しの青旗 ハリー・マッカーシー 剛勇の者たち * 古き自治領のバージニアが * 若者よ,元気をだせ * これが我らの南部連合だ *
我らは兄弟,この土地の者
土地のために戦い,正直な努力で獲得してきた
我らの権利が脅かされるとき,
叫びがあちらこちらから聞こえる
「一つ星の麗しの青旗万歳!」
*
万歳! 万歳! 南部の正義に万歳!
一つ星の麗しの青旗に万歳!
連邦が友達や兄弟のように連邦が信頼できたうちは
我々も友達や兄弟だった
しかし今や,北部の裏切りは,我々の権利を台無しにしようとしている
我々は一つ星の麗しの青旗を掲げる
*
まず勇敢なサウス・カロライナが堂々と立ち上がった
そして,アラバマが手を携えた
次はミシシッピにジョージア,フロリダ
みんな一つ星の麗しの青旗を掲げた
*
正義の旗の下に集まりて
テキサスとルイジアナも一緒に戦いに加わる
我らの愛するデービス大統領とスチーブンスは
一つ星の麗しの青旗の周りに集う
若き南部連合と同じ運命の元一緒になる
それに倣って今やほかの州も
一つ星の麗しの青旗を掲げる準備をしている
アーカンソーとノース・カロライナのために
歓喜の叫びをあげよ
彼らは両方とも志願した
そして別の興奮をテネシーのために
麗しの青旗の一つ星は,11になったのだ
我らは強く,勇ましい
古の愛国者のように我らは戦う
我らの遺産を守るため
屈服して恥じるよりも死んだ方がましだ
だから一つ星の麗しの青旗に喝采を
■領土拡大
・1755−1763 フレンチ・アンド・インディアン戦争
大陸のフランス植民地が英国(とスペイン)へ
フランスがいなくなったので,西へと進出してインディアンを虐殺
英国王は「アパラチア山脈の西はインディアンの土地」と宣言。
・1775−1781 独立戦争
上記の英領が米領になる
・1799−03 フロリダにマスコギ国(クリーク同盟)
・1800 ナポレオンが米のスペイン領をフランスのものに取り戻す。米大統領は,ナポレオンへルイジアナの一部を購入するために交渉。
当時のスペインには,植民地を管理する能力に欠けていた。
・1803
しかし米大陸領土をあきらめたナポレオンは,ルイジアナ全体を1500万ドルで売却。
・1810 西フロリダ共和国
・1812−14 米英戦争 新領土獲得はなし
・1817 スペイン領フロリダへジャクソン司令官が侵攻
当時のフロリダはスペインがちゃんと治められなかった。
米英戦争時,国境を越えて米軍を送っていたことに,インディアンや逃亡奴隷たちが団結して反抗したのを鎮圧する目的。しかしフロリダ全土を制圧,英国人などを処刑して,英スペインから強い抗議。
インディアンに勝ち英雄になったジャクソンの行動を議会は支持。
・1819 フロリダ購入500万ドル。テキサスはスペイン領であると認める。
フロリダ条約 テキサス領有権を放棄 米国人はこれに不満でテキサスに不法侵入 loneStarflag
・1820 宣教師団ハワイ到着
・1821 メキシコ独立 22−23帝制 23共和制 27ー内乱
サンタ・アナ将軍が権力者に オースチン入植地はlonestarflag
・1822 アメリカ植民協会 解放奴隷を今のリベリア モンロビアへ入植させる
メキシコ皇帝入植法 入植者はメキシコ国籍を得て,カトリック教徒になるのが条件にして土地を与える 独立に際しての米国の援助に報いる
・1823 モンロー宣言 メキシコ共和制に
・1824 オレゴン英米で共同統治 ロシア,スペインは撤退
メキシコ政府 寛大な入植法を制定 コアフィラ・テキサス州に自治権
当時の米国では1820土地法 土地の入手に最低1.25ドル/エーカー
テキサスでは契約人に12.5セントの支払いでよかった。
綿花プランターにとっても処女地は魅力的 略奪的綿花栽培
メキシコ憲法 奴隷禁止
・1825 アダムズ大統領 国境拡大改訂交渉失敗
・1827 フレドニアン反乱
エドワーズ兄弟がスペイン時代に許可された権利を持つ先住者を追い出そうとした。メキシコは先住者に加担したので,フレドニアン共和国の樹立を宣言インディアンの支持を見越したが支持されず失敗
アダムズ100万ドルでテキサス買収を提案 拒否される
メキシコ内乱状態に
・1829 ジャクソン大統領500万ドルでの買収提案
・1830 メキシコ議会 移住禁止法 テキサスへの奴隷持ち込みと米国人の移住を禁止し米国からの輸入に高い関税を課した。未執行の入植契約は棚上げにする。
テキサス人の反発と移住の促進
インディアンの強制移住法
・1831 テキサスにメキシコ軍守備隊設置 米メキシコ友好通商条約
・1832 未執行地をメキシコ国家に返還する法律可決
反対者は安全委員会を組織,移住禁止法の撤回,関税免除の拡大,テキサスが州としてコアフィラから独立を請願
サンタ・アンナ将軍クーデター テキサスの反政府勢力に対し,彼の支配を受け入れるなら要求をのむ用意があると打診
・1833 安全委員会 テキサス州憲法(米憲法の模倣)起草 サンタ・アンナから分離独立を除いた要求を認められて 移住禁止法は撤回 米国人が再び殺到
米国人によるテキサスへの土地投機が増大し,資産家は資産の確保のため 政治権力による保証を求め まず買収,だめならテキサスをメキシコから分離し,併合を追求
・1835 サンタ・アンナ中央集権憲法 地方自治を廃す テキサス人連邦主義の擁護を名目に軍隊を組織して メキシコの要塞を攻撃 lonestarflag 自らを「英国王の圧政に苦しんだ米植民地人」になぞらえ,独立を合理化しようとした 「理由の宣言」臨時政府樹立
司令官ヒューストンはジャクソンの友人
・1836 テキサス共和国 自然権の教理を掲げサンタ・アンナの圧政に対する反抗を正当化した独立宣言
サン・ジャレントの戦いで独立軍勝利 米国からの軍事的・財政的援助
独立軍の半数が入国したばかりの米国人
ヒューストン大統領に
米国は中立を表明したが,国際法による公式の中立宣言は行わなかった。
中立法「友好国に対する敵対的討伐を禁止。国内での外国人による兵士募集を禁止。だが交戦国へ移住し外国領土で外国軍隊にはいるのは禁止していなかった」 テキサスは代理人を米国に派遣,公然と入隊させるための移住者を募集,戦費も調達した。 駐米メキシコ大使は中立侵犯を訴える
米軍インディアンに対する反撃を口実としてテキサスの一部を占領
米世論とマスコミは熱烈に独立軍を支持 志願兵も集める 戦うための移住
北部も多額の資金をテキサスに投入
テキサス共和国には土地以外に財源がなかったため,土地を売却
米での兵士=移住者徴募の際も土地が報酬
テキサス貨幣は$1=10セント米ドル(1841)
米国からの負債は1843に800万ドル 土地は米国投資家の争いの場へ
テキサス国民投票 7000人中 反対93で併合提案を採択
米議会 メキシコとの戦争をおそれて介入に反対
承認は大統領の専決事項
上院「テキサス承認は独立国として義務を遂行する政府を持ったとき」と満場一致で議決。下院でも圧倒的多数で議決
「奴隷制の拡大か否か」で米国は揺れる
・1837 ジャクソン テキサス共和国承認 上院が決議
ヴァンビューレン併合の申し出を拒否
「併合がメキシコとの友好条約の精神に反し,合衆国の従来の政策にも反する」
北部諸州はテキサス併合反対決議案を採択
恐慌
アダムズ 上院に併合反対決議案を提出
「いかなる独立国の国民を併合する権限は,合衆国憲法によれば,連邦議会にも,政府米かなる部門にもゆだねられておらず,国民に留保されている」(憲法は連邦政府の権限を限定している)
議長は受理を拒否
テキサスは独立維持の政策に転換
・1838 米議会に併合賛成反対の両案提出される
・1839 テキサス 500万ドルと引き替えのメキシコとの和平交渉に失敗
フランスが承認
・1840 英国とオランダが承認
・1841 ベルギー承認
ラーマ大統領 議会の反対を押し切ってメキシコ侵攻 失敗 領土拡大
・1842 メキシコ軍テキサス侵攻 ヒューストン国家非常事態宣言 再び併合申し入れ
タイラー大統領 その申し出を拒否
米国艦隊独断でメキシコの町を包囲(ジョーンズ事件)
・1843 ハワイの独立を承認
サンタ・アンナ テキサスがメキシコの主権に戻るなら独立に等しい自治を与える テキサスはこれに応じる姿勢を見せながらも本心は併合のみ
サンタ・アンナ 「メキシコは反乱政府が与えたいかなる権利も承認しない」と宣言,利権者はますます併合しかないと思いこむ
テキサス侵攻のため臨時の20%関税 英が反発し 英メキシコ同盟の可能性はなくなる
英は奴隷制度反対,米の拡大にも反対 併合論者は英の陰謀と宣伝
米「英国の干渉を口実に」 テキサスに併合交渉を打診
テキサスは「メキシコがテキサスの独立を承認するならば,併合条約を承認するつもりがない」と宣言 米世論の喚起をまった
・1844 併合条約調印 上院35:16で批准を否決
タイラー大統領 教書を下院へ送付 憲法違反の処理 審議未了会期切れ
メキシコは戦闘再開 その軍事的脅威が取り除かれる確約がなければ「併合を表明しにくい」状態に
米国「20年間も米国がとり続けてきた併合政策を阻止するのは許せない」とメキシコに警告
タイラー年次教書 「共同決議によりただちに併合を」
メキシコで革命
・1845 両院合同決議により テキサス併合条約承認
下院120:98で可決
・州として連邦加入を認める
・境界は連邦政府の調整にゆだねる
・テキサスは公有地と債務を保留する。
・テキサスの同意で将来4州以上とならない条件で分割されうる
・奴隷制度はミズーリ協定線の北では禁止される
上院は決議を却下
「下院の決議を実行するか,新たな交渉をして別個の条約を結ぶかの選択権を大統領に与える」修正決議案を27:25で可決
下院はこれを132:76で同意。
タイラーは共同決議に署名
メキシコ米国と国交断絶
英仏は併合阻止のためメキシコにテキサス承認の交渉
テキサス議会にはメキシコ提案と併合案の両方を付託
テキサス議会満場一致で併合を受け入れ
ポーク テキサスを28番目の州とする法案に署名
・1846 テキサス立州
米メキシコ戦争
カナダとの国境確定 オレゴンを米領土に
カリフォルニア共和国 テキサスのまねをして独立宣言 どの程度本気だったかは疑わしい。
6/14から7/9(米軍による占領で米国旗が掲げられる)
・1847 リベリア独立を宣言
・1848 メキシコ国土の半分を米に割譲
・1853 ペリー来航
・1861 南部同盟政府樹立 ミシシッピ共和国 南北戦争 −65 法的にノースカロライナ州旗制定
・1867 アラスカをロシアより買収
・1868 ドミニカ併合を申し入れたが合衆国は拒否
・1893 ハワイ王朝転覆
・1894 ハワイ共和国承認
・1898 米スペイン戦争
キューバ,プエルトリコ,スペインから米の属領へ
ハワイ併合 グァム米領土に
・1899 キューバを軍事占領下におく
フィリピン共和国成立宣言 米と戦争へ
・テキサスとは
憲法はあったか
紙幣は
課税制度はあったか
併合を求めたのはどちらか
軍隊は
ヒューストン 騎馬ライフル隊280 常備軍3587
ラーマ テキサス海軍7隻
◎テキサスの人口
1821 7000
1831 20000
1836 52000 60%米国人 28%インディアン 10%黒人 7%メキシカン
以降黒人奴隷が増加
メキシコ憲法では禁止
・入植者
メキシコ法の下に自治体を組織,州議会に代表を送る政治的服従と同化
しかし言語・文化・宗教はメキシコ人と対立
■
・合衆国憲法
「上院における三分の二以上の賛成によって条約を批准しなければならない」
第二条
両院合同決議はこの憲法規定を無効にする便宜的手段
◎キューバ
砂糖精製と鉱山に多額の投資を行っていたアメリカ資本がスペインからキューバを切り離したのもテキサスと同じ
1997 クリントンが奴隷制度について謝罪すべきかが議会で問題に
ヒューストン
アメリカの政治家。バージニア州生れ。1823‐27年合衆国下院議員,27‐29年テネシー州知事。35年以降,メキシコからの独立をめざすアメリカ系テキサス軍を指揮し,36年4月メキシコの独裁者サンタ・アナ将軍を捕虜にし,テキサスの独立を承認させた。同年,最初のテキサス共和国大統領に当選し,38年には落選したものの41年には再選された。45年テキサスが合衆国に合併されるや同州選出の上院議員として13年間働き,59年同州知事に当選した。南北戦争に際しては連邦側に立ち,南部の分離権を承認せず,61年に辞職し,隠退生活を送った。テキサス州ヒューストンの市名は彼にちなむ。
■lone star state
一つ星の意味
「州として合衆国に加わりたいという願いの象徴」
「1824年のメキシコ憲法の元で唯一その諸権利を維持した州」
■テキサス方式
ポークは,カリフォルニアもテキサス方式で住民に独立させて併合と考えていた。しかし,住民にその気はなく,買収へ。それも失敗して武力行使。
■メキシコ割譲地
メキシコ割譲地からできた州の旗に共通点はあるか?NewMexicoはどうか。 フロリダ共和国との対比